人の情緒不安定を笑うな 3(おわり)

 

 

 人の情緒不安定を笑うな 3

 

 

 自分の情緒と付き合っていくため、自分の情緒を探れば探るほど、過去の自分が放置した問題につまずいては出血、帰り道も行く先もわからなくなって、あまりの虚無に敗北する。友人たちとたのしく話していても、ふとした一言で、思考が一時停止する。

「ただの気分屋だろう」と笑う野郎のために言いますが、情緒不安定と気分屋は違うのです。気分屋は、移り行く感情に、毎度全身全霊を尽くし、自分の感情が一転していることには、案外気が付いていないのです。けれど、僕の思うに、僕らの情緒不安定は、どうやら違う感覚で、自分の感情を見ている気がするのです。つまるところ、移り行く感情を、客観的に観測している自意識があるのです。

 

 

 例えば、気分屋は「たのしい!」から「ムカつく!」の移り変わりがあったとして、ここにはひとつの自意識しか登場していません。ですが、「たのしい!」から「ムカつく!」これに加えて「あれ、さっきまで楽しかったのになんでムカついてんだろ」という2つ目の自意識が生まれている。自分の情緒の動きを客観的に観測している自分が、自分の中に確かに存在しているのです。

 

こいつのせいだ!こいつの存在が、僕の感情内で領土を広げつつある。いやすでに、「うれしい!」「ムカつく!」とかの、純粋無垢な感情たちの息がもうない!こいつの悪いところは、客観視してデータだけを突き付けてくるのに、現実的な行動に対しては、なんの働きもしないのです。「うれしくなったり、腹が立ったりしているけど?どうする?」どうする?じゃあないよ。「この黄色がかわいい」という初動の数秒後「この黄色がかわいいと感じられる自分を見せたいゆえの感情ではないか?」とか「だれかの感覚に近づきたいだけなんじゃない?」とか、それに負かされて、意気消沈していくと「意気消沈しましたけど?」しましたけど?じゃあないよ。お前さえいなければ、僕は、僕の中に確かにあった、かわいい純粋無垢な感情たちに従って、嘘偽りない快活な日々を送れていたというのに。お前が、殺したんだ!純粋な感情の力はすさまじいものなんだ。迷いなんて生まれる隙もなく、体が動くのに。もう息がないのか。

 

 

 自分の情緒を客観視だけしているこいつの活かし方、みたいなのはきっとあるんでしょうし、それを書くことで、僕は「自己啓発系の文を書く人」という肩書をいただけるのでしょうが、そんなものをもらっても、肩書の重さにやられてしまうだけです。もうすでに僕と、僕の中にいる(もはや外かもしれません)こいつの付き合い方は、さっぱりしてしまっています。冷め切った熟年夫婦みたいな温度の距離感です。もはや記憶にもない契約のもと、ただこの日々が続いているから、明日も続けている。もう契約を破棄する体力もない。言葉もない。あのころの情熱なんて、先週の夢より定かじゃない。

 

 

 けれど、明日からも生きてゆくつもりをしているので、このままでは終われないのかもしれない。ほぼ息がない、というより息が短い、いとおしい純粋な感情の、一瞬の息、あれを追い求めたい。というより、追い求めるほかない。すでに限りなく少なくなっている感情の初動。客観野郎が口を出してくるまでの時間。わずか。しかも、そんじょそこらの影響じゃ、いまやあの初動すらない。追い求めなければならない、客観野郎が、ひるむ瞬間を。去年の夏、岡山駅から特急やくもに乗って、島根県へ向かっている車内の窓から見えた、つよい緑とか、幼いころ、母とマンゴーのパフェを食べたミニストップのイートインスペースの雰囲気とか。たしかに客観野郎が口を出してこないほど、純粋な感情のまま、記憶に記録できた場面が、少なからずある。それに出会いたい。そうするほか、ない。純粋な感情の息を、よみがえらせる他ない。いつか、冷め切った熟年夫婦に、青春みたいな情熱がよみがえったとき、僕は、やっと、自分の情緒不安定を笑えるようになるのだ。

 

 

 あなたがもし、昨夜の感情を信じられなかったり、揺れ動きすぎる心中に振り回され、何かに触れることさえ恐れてしまっているのであっても、僕はそれを笑いません。生きる気力に満ちた顔をした数秒後、地獄の形相になって泣き出しても、僕は笑いません。そんなあなたを笑う人間は悪です。こんな僕を笑う人間は、悪です。やっぱり奴らは悪でした。理解できないものを、とりあえず否定して、気味悪いものとして扱うことでしか自分を保てない人間たちでした。僕らは、自分を保つために、他人を否定する余裕なんてないのです。ただ、自分と向き合い続けるほかない。自分の情緒不安定を笑えるのは、自分だけなのです。