LINEみたいな文

 

 

 


なんかさ、自分が書いた文とか、自分が大事にしている言葉をな、それなりに完成させた時、めちゃくちゃ満たされるし、とんでもなくかわいく思えるねんけど、公開した瞬間というか、自分以外の誰かに見せた途端に、一気に興味なくなるねん。というかかわいく思えなくなるどころか、駄作に思えて、なにこれ全然あかんやんってなる。だから褒められたら、「なんでこんなん褒めてるん?」ってなって、否定されたら「わかる、これぜんぜんあかんよな」って本心から思う。「なんでわかってくれへんねん!」って怒ることあんまりない。

 


これまでは、否定されたりするのがこわくて、誰の目にも見えないように隠してきたわけやけど、いざ見せるようになったら、こんなに自分の作品に自信持てへんねや」って不思議なってる。

 


それはきっと全然認められてないから、負け惜しみでそう思ってるんやってほぼ確信しようとしててんけど、前のめっちゃ拡散されたツイートでも結局、お褒めのリプとかみても、「なんでそんな褒めてるん?センスないんちゃう、自分」とか思ったりしてた。そんなこと絶対言わへんし、本心の中でも強いやつじゃないから、表に出したくならへんけどさ、なんか表現者として最悪のメンタルやなって笑ってる。

 


けど、例えばこの文見てる人達とか、現実でも「あの人」に褒められたら、素直にめっちゃうれしい!めっちゃ好き!ってなるから、結局自分の中で、認めてほしい人を明確に選別してて、それ以外の人の意見とかはどうでもいいんかなあ。にしては気になるし、傷だけつけられることあるよなあ。

 


この感情だけに従って、「ほんまはきみだけが大事!きみがほめてくれたらぼくはそれでええねん!」って言いたくなる、言ってしまうことがある。「じゃあなんで、よそでいい顔するんよ!」って怒られたとき、なんも言い返せへんかったように、どこまでいっても全部欲しいんやろな、不特定多数からの人気も、特定からの人気も。わがままやなあ、やれやれやでほんま。

 


もう何年も人に見せるってことを避けてきて、それを徐々に乗り越えるようにしてる、Twitterだけじゃなくて現実でも。大事にしてるものほど、外に出そうって思うようにしてる。もちろん場所は選んでるつもりやけど。ていうか、Twitterと現実って言い分けてるけど、どっちも現実、もはやTwitterの方がリアル、とか言い出したらまた何千字も書いてまうから寝る。ここに書いたことも、「かなあ」とかで済ましたこと全部、言語化するで!って意識で書けば、ぜーんぶわかってまうんよ。「考えたらわかること」を考えないでいることができた人生やったら、いまごろ警察官とかなってるやろな。でも、たまには「かなあ」で済ましたいんよ。

 


そういえばな、今日な、同居人が帰ってきたと思えば「仕事やめてきた、今日で」って言いよってん。普通に向いてへんことやってたし、はよやめーやってずっと思ってたから、おめでとう〜って言って、無職の心得を伝えといた。とりあえずゆっくり休んでほしい。あしたからおれはバリバリ働くから〜!人生どうしよかって話はこれからするねんけど、まるで誰かを養うために働くみたいな気分やから、明日からめちゃくちゃ新鮮。

 

ていうかnoteのアプリめちゃくちゃ使いにくいねんな。改行とかスペースぜんぜんうまいこといかへん。なんなんあれ、パソコンの方がええんかな。やっぱnoteあんまり好きちゃうわ。あんたのことはすきやけどな!言うてますけど!ねま〜す。いい夢みよな〜

 

 

人の情緒不安定を笑うな 3(おわり)

 

 

 人の情緒不安定を笑うな 3

 

 

 自分の情緒と付き合っていくため、自分の情緒を探れば探るほど、過去の自分が放置した問題につまずいては出血、帰り道も行く先もわからなくなって、あまりの虚無に敗北する。友人たちとたのしく話していても、ふとした一言で、思考が一時停止する。

「ただの気分屋だろう」と笑う野郎のために言いますが、情緒不安定と気分屋は違うのです。気分屋は、移り行く感情に、毎度全身全霊を尽くし、自分の感情が一転していることには、案外気が付いていないのです。けれど、僕の思うに、僕らの情緒不安定は、どうやら違う感覚で、自分の感情を見ている気がするのです。つまるところ、移り行く感情を、客観的に観測している自意識があるのです。

 

 

 例えば、気分屋は「たのしい!」から「ムカつく!」の移り変わりがあったとして、ここにはひとつの自意識しか登場していません。ですが、「たのしい!」から「ムカつく!」これに加えて「あれ、さっきまで楽しかったのになんでムカついてんだろ」という2つ目の自意識が生まれている。自分の情緒の動きを客観的に観測している自分が、自分の中に確かに存在しているのです。

 

こいつのせいだ!こいつの存在が、僕の感情内で領土を広げつつある。いやすでに、「うれしい!」「ムカつく!」とかの、純粋無垢な感情たちの息がもうない!こいつの悪いところは、客観視してデータだけを突き付けてくるのに、現実的な行動に対しては、なんの働きもしないのです。「うれしくなったり、腹が立ったりしているけど?どうする?」どうする?じゃあないよ。「この黄色がかわいい」という初動の数秒後「この黄色がかわいいと感じられる自分を見せたいゆえの感情ではないか?」とか「だれかの感覚に近づきたいだけなんじゃない?」とか、それに負かされて、意気消沈していくと「意気消沈しましたけど?」しましたけど?じゃあないよ。お前さえいなければ、僕は、僕の中に確かにあった、かわいい純粋無垢な感情たちに従って、嘘偽りない快活な日々を送れていたというのに。お前が、殺したんだ!純粋な感情の力はすさまじいものなんだ。迷いなんて生まれる隙もなく、体が動くのに。もう息がないのか。

 

 

 自分の情緒を客観視だけしているこいつの活かし方、みたいなのはきっとあるんでしょうし、それを書くことで、僕は「自己啓発系の文を書く人」という肩書をいただけるのでしょうが、そんなものをもらっても、肩書の重さにやられてしまうだけです。もうすでに僕と、僕の中にいる(もはや外かもしれません)こいつの付き合い方は、さっぱりしてしまっています。冷め切った熟年夫婦みたいな温度の距離感です。もはや記憶にもない契約のもと、ただこの日々が続いているから、明日も続けている。もう契約を破棄する体力もない。言葉もない。あのころの情熱なんて、先週の夢より定かじゃない。

 

 

 けれど、明日からも生きてゆくつもりをしているので、このままでは終われないのかもしれない。ほぼ息がない、というより息が短い、いとおしい純粋な感情の、一瞬の息、あれを追い求めたい。というより、追い求めるほかない。すでに限りなく少なくなっている感情の初動。客観野郎が口を出してくるまでの時間。わずか。しかも、そんじょそこらの影響じゃ、いまやあの初動すらない。追い求めなければならない、客観野郎が、ひるむ瞬間を。去年の夏、岡山駅から特急やくもに乗って、島根県へ向かっている車内の窓から見えた、つよい緑とか、幼いころ、母とマンゴーのパフェを食べたミニストップのイートインスペースの雰囲気とか。たしかに客観野郎が口を出してこないほど、純粋な感情のまま、記憶に記録できた場面が、少なからずある。それに出会いたい。そうするほか、ない。純粋な感情の息を、よみがえらせる他ない。いつか、冷め切った熟年夫婦に、青春みたいな情熱がよみがえったとき、僕は、やっと、自分の情緒不安定を笑えるようになるのだ。

 

 

 あなたがもし、昨夜の感情を信じられなかったり、揺れ動きすぎる心中に振り回され、何かに触れることさえ恐れてしまっているのであっても、僕はそれを笑いません。生きる気力に満ちた顔をした数秒後、地獄の形相になって泣き出しても、僕は笑いません。そんなあなたを笑う人間は悪です。こんな僕を笑う人間は、悪です。やっぱり奴らは悪でした。理解できないものを、とりあえず否定して、気味悪いものとして扱うことでしか自分を保てない人間たちでした。僕らは、自分を保つために、他人を否定する余裕なんてないのです。ただ、自分と向き合い続けるほかない。自分の情緒不安定を笑えるのは、自分だけなのです。

omaeno ために ikiterunndayo

 

愛してくれ、もうそのまま、今のまま。

22年生きてきた、そのうち、ほんとうに生きてた時間は何年。

 

死ぬつもりもなく飲んだ錠剤で死にそうだった。

結果的に生きている。

 

薬をたくさん飲んで死ぬ気のない自殺ばっかしてる女子高生を、

よそからみて、ダサいとかかまってちゃんだとか、

メンヘラだとか言ってる人間を殺したい。

 

ダサくて、生きんのも死ぬのも勇気なくて、

かまってちゃんで、すぐTwitterに載せる女子高生が、

22歳男性の心の中に住んでる。

手首は切らない、痛いから。

 

 

 

気が付いた時には、なんの反応もないアイフォン。

サイフはあった。アイパッドがなかった。

 

地獄みたい暮らしの中。

友人たちに助けられながら、デザインで飯が食えそうだった。

そんな兆しがあった。

まともなパソコンもないから、アイパッドで仕事をしてた。

商売道具がなくなった。

これは、同居人のパソコンを借りている。

もう修理の事とかどうでもよくて、はやくツイートしたかった。

 

Twitterが好きだ。

なんだか、全部許してくれそうなんだ。

みんな自分のことで精いっぱい。

みんな苦しんでる。

死にそうになると、途端に人が好きになる。

人を好きになれば、人に好きになってもらえる気がする。

僕の好意は、不純物まみれです。

 

外に出ると、楽しそうなやつばっかりで、ぶっ殺したくなるんだ。

Twitterはみんな死にそうだ。

みんな乾いた悲しさがあって、今にもみんな死にそうだ。

今にもみんな死にそう。

 

もう褒めてほしいわけじゃない。

それは、うそだ。

褒められたくて生きている。

人のことをもっと素直に褒めたい。

さわやかに好きだと伝えたい。

愛を適度に伝えられない。

度合がわからず、温度差が生まれるのが怖くて、

ただ黙ってしまう。無感情だと思われてしまう。

 

好きな人のことを、ほんとうは。

ほんとうは、好きな人の手をひいて、

僕の手と結び付けたりして、

綺麗な海でも見に行ったり、

木の隙間のひかりとか、

夕暮れ、存在しないふたりの青春を思い出したい。

自由をすっかり奪い合ってしまいたい。

 

 

 

今年の三月に、

二年付き合った彼女と別れた。

別れた理由は、ただの僕の発狂だった。

別れ話をした田舎のイオンのベンチ。

特に思い返して浸る感傷もないけれど、

あの子に最後まで「僕の心の中には手首を切る女子高生」がいることを言えなかった。

 

僕は「きちん」というアカウントで少し前までTwitterをやっていた。

僕はあいつが大嫌いだった。思い返しても気色が悪い。

ブームに乗っていただけの、クソみたいな言葉ばっかり。

 

ただ、たまに書いてた短編(あんなので短編とか言ってるのが気味悪い)を褒めてくれた人がいたから、それは好きだった。

というか、褒めてくれた人が好きなだけだ。

自分の作品で、好きなれたものが何一つない。

 

もうめちゃくちゃだ。

心情だけはめちゃめちゃなのに、

人に伝えるときには小奇麗にしやがる。

たまに表へ出る、めちゃめちゃな心がすべてを壊してきた。

 

Twitterが大好きだ。やってたって何にもならない。

Twitterにいる好きな人も、隣のクラスのマドンナみたいな距離だ。

なんにも手に入らず、現実に引きずられていなくなっていく人をたくさん見た。

はやくそうなりたい。

 

現実で辛くなったらTwitterを求める暮らしは好きじゃない。

もしTwitterが明日サービスを終了したらどうしたらいいんだ。

 

ちがう。

全部総括して、Twitterが好きなんじゃなくて、

僕の心の整理方法が文字に起こすことで、それができるのがTwitterなだけ。

ちがう。

僕が思春期が欲しかった居場所に似たものがTwitterにある。

 

 

僕の文をなぜかずっとよんでくれている人、

あなたはこの世の誰よりも僕のことを知っている。

僕がもし死んでしまったら、

その葬儀にはTwitterの人だけが参列してほしい。

 

追記

死ぬつもりはない。

 

人の情緒不安定を笑うな 2

 

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人の情緒不安定を笑うな パート2

 

 

 

 

 

 

  数年前の夏。神戸に遊びに行ったことがある。とても暑い日で、電車から降りた途端、気持ち悪いくらいに熱風で撫でられた。中華街のあの通りは、熱気が油で閉じ込められたように逃げ場がなく、ハトは低空で飛ぶし、気を抜くと知らない女子高生の自撮りに入りそうになる。異国語が飛び交う。さっと路地に抜けてもゴミが散乱していたりして、落ち着かない。口数が減って、そわそわしてしまう。「ほんと暑いね」と気を使って声をかけてくれるけれど、返事もそこそこにしてしまう。決して怒っているわけではないし、それを表情に出したりもしていないはず。けれどありありと自分の雰囲気が気怠くなっていくのがわかる。ただ、中華街に自分が馴染めていないことが気になって、なんのあてもなくここから脱出したくなっているだけなのだ。一年の半分も教室で授業を受けていないのに、なぜかクラス会に行った時、よりかは馴染んでいるけれど、あれに似た感覚がある。帰りたくなる。しかし帰ったってひとりなので、まだこの子といたいと思っていたら、小籠包を食べないかと提案された。ああ、これは、楽しんでいないと思われている。この子が泣いている子供に声をかけているところを見たことがあるのだけど、その時と同じ声で「小籠包食べる?」と聞かれた。「うん」と変な声で返事をした。

 

 


  小籠包を食べるためには、並ばないといけなかった。15分くらいは並びそうだった。なにより並ぶというのが苦手なのだ。待つのは得意なのだけど、並ぶとなると、自分から後ろの人たちのことが気になって、まるで自分のせいで待たせているんじゃないか、とか考え始めて、たまらなくなって列から出ることが度々ある。けれど今はそんな奇怪な行動はできない。苦肉の策として、iPhoneにイヤホンを刺して、この子に片方渡して、曲を流した。ここまで無言である。僕は突如として声帯を失ったかの如くしゃべらなくなることがあるということを、理解してくれている人だったので助かった。なんとかスピッツで息をつないで、やっと小籠包にありついた。さすがにご馳走した。150円くらいだった。これで満腹になってくれないかな、とか考えていた。

 


  食べたら、元気になった。なにより、はちゃめちゃに美味かった。今でも思い出すくらい美味しかった。油の暴力みたいな味だったけれど、それがよかった。それからというもの、矢継ぎ早に喋りだした。冗談も口から出て、なかなかに軽快だった。

 


  食事と情緒に関しては、最近明確になりつつある。この前、同居人の彼が仕事から帰ってくると、「ムカムカしてんね、飯食ってないでしょ」と言われた。確かに食ってなかった。そして実際ムカムカしていたので「ううう」と地鳴りみたいな返事をした数分後、赤いパスタが出てきた。「飯食ったか食ってないかすぐわかる子やね君は」となんか嬉しそうに言うのだ。「なるほど、俺は飯を食ったら元気になるのか!動物らしくていいじゃん」と元気に答えた。「低血圧なだけだよ」途端に突き放された。自分の心理状況に、なんだか医学的な名前(病名)を授けられると、ふっと気が楽になると同時に、その名前に甘えてしまいそうになるので、あまり心理状況に病名をつけるのは好きじゃない。あくまで自分の話である。

 


というふうに、僕は食べると元気になるということが最近になってわかった。これに関しては、なかなか正確な統計が取れているので、信憑性が高いし、持続的に安心して自分のプロフィールに載せられる。しかし、あまり食べすぎると急激に眠くなり、その場で本当に寝てしまいそうになることも多くある。よく友人に馬鹿にされる。「コナン君が麻酔銃を誤射した」といつもの冗談を言うけど、あんまりウケない。

 


例の中華街においても、あの小籠包を皮切りにフカヒレラーメンやらケバブやらをたくさん食べた。小籠包以前とは同じ人間とは思えないほどで、あの子も困惑していたけれど、よく笑ってくれる子だったので暑さも笑えるようになった。

 

 

 

日が少し暮れかかると、中華街から離れ、僕の趣味の路地歩きに付き合わせていた。すると長い商店街があった。古い商店街が大好きで、一度入ると、最後まで見ないと気が済まないのだ。あまり先がないように見えたので、安易に足を踏み入れた。これがよくなかった。最初の方は、お洒落なカレー屋さんや古着屋、楽しむにはもってこいだだったのだけれど、驚くほど先が長かった。そこそこの長さがあるアーケードを抜ければ、またすぐ同じ長さのアーケードが出現する。さらに奥に進めば進むほど、店は減りシャッターの灰色で一色になっていった。これもよくなかった。意地を張って進むのだけれど、あまりの風景の変わらなさに、脳が動きを止めたのを見逃さず、自問自答が始まってしまった。これが決定打となり、口が開かなくなり、ただ歩く人間になった。隣を無言で歩く、この子の視線を感じることで、より自問、そして嫌悪に繋がり、いよいよ泣き出してしまった。すると、手を握ってくれた。少々正気を取り戻し、来た道を戻り駅を目指した。閉口を貫く僕の手をずっと握ってくれていた。次第に気持ちも落ち着き、ただこの子への感謝が溢れ、大阪駅までの時間、女性の豊かさについて考えていた。まだ閉口は続いていたけれど。

 

 

 

大阪駅に到着し、改札広場の雑踏の中、ベンチに座った。騒ぐ学生を冷め切った目で刺すおじさんの顔ばかり見てしまう。相変わらず隣にいるこの子の優しさを再び噛みしめたくなり、「手を握っててくれてありがとう。」となんとか明るく振る舞い、感謝を伝えた。すこし時間を開けて「手を離すとどっか行っちゃいそうだったから」と目は見ずに言われた。力んだ音だった。

 


その時、僕はなんと嫌な気持ちになった。信じられないかと思うが、「何言ってるんだ?」と確かに思った。僕は外的環境にそぐわない状況でのロマンチックが苦手なのだ。おおいに恥ずかしくなる。決して自分がロマンチストではないというわけではない。そもそもあの子の、あの言葉がロマンチックであったかと言われると様々な意見があるだろうが、確かにあのセリフに言わされていた雰囲気があったのだ。もともと自分の言いたい言葉リストの中から、出てきたような気がしてならなかった。あまりに言葉の響きに酔っていて、僕との間に温度差が生まれてしまった。

そしてなりより、場所がよくなかった。なんの静寂も統一性もなく、一つの余裕も感じられない、効率だけを追求したような環境にロマンチックは、あまりに不釣り合いだった。一見そぐわない環境であっても、その違和感を逆手にとって2人の間に違和感を超越する雰囲気が築けたのであれば、また話は変わるが、この場合、僕にその気がまったくなかった。本気の感謝だったし、本気の閉口だった。なんの余裕もなかった。言葉に言わされることもなく、本心だった。ロマンチストは余裕の象徴であり、なにかの過大表現であるので、切羽詰まった状況でロマンチックなんて生まれやしないのだ。けれど、僕の言葉に何かが乗り込み、あの子のただ、言ってみたかったことの引き出しを開けてしまった結果、それに当てはまりそうなものを押し込められた。

 


これほど厳しいのは、よく自分もロマンチックを間違える時がしばしばあるからだ。どう考えても今じゃない時に、口説き始めたり、絶対に今!という時におちゃらけてしまったりする。そういう場面がよくある。なので、例のあの子のあの言葉も、確かに違和感で恥ずかしくなったものの、抱きしめたくなった。実際そうした。違和感を乗り越えたら、単に好きが溢れた。またこうして情緒が変化した。

 


あの子は今、僕の上位互換みたいな小綺麗な男と一緒にいる。

 

 

パート2 おわり

人の情緒不安定を笑うな 1

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人の情緒不安定を笑うな パート1

 

 

 

人の躁鬱を笑うな。

 


笑ったかと思えば、泣いています。

忙しない情緒の転換に、体が追いつかなくなってもう何年でしょうか。こころの中には、矢継ぎ早に大型台風が毎日直撃、今夜も真っ最中。けれど、その様子を表情に映すことができなくなって、日夜ずっと、色のない顔をしています。とはいえど、うまい飯を食えば笑うし、ねこを見れば、ほころびます。けれどこれは、散歩用のリールを見て、はしゃぎ回る犬と変わらないでしょう。昔、飼っていた犬は死にました。思い出すと悲しい。

 


もう、ああ!日夜叫びたい!モノを蹴飛ばして、人を殴りたい!昨夜の決意も消えてなくなり、今夜の迷いは今夜で終わり。来週2倍になって帰ってくる。この覚悟さえ、またいつもの流行に過ぎないのかしら。そんな不安で今日も晴れたというのに布団から出れず。

 


喜怒哀楽なんてかわいいもんじゃない。喜怒怒哀哀楽哀喜怒。けれど、表情は、無無無にっこり無無にっこり。なんだってんだ。友人はみな愛してくれたり、突き放したり、なにか私に言葉を当てはめてくれたりもする。その度、にっこりして心中も喜。けれどその後、怒。おまえになにがわかるってんだ!あの時死んだ犬は、私の中で狂犬となり、未だ飼いならすことができない。世の中には嫌な奴がたくさんいるので、そいつらに噛みつくぐらいはしてほしい。

 


就職活動をしていた時(もはや前世の記憶みたいに遠いですが)、みな口を揃えて自己分析、自己分析と言っておられましたが、全く意味がわからず、なぜ自分が働く会社に、自分を理解させる努力をこちらがしないといけないのか、最後まで納得できませんでした。その結果がこれです。それに加えて、これまでの人生、自己分析に費やしたようなものですから、今更やってる奴は、今までなにしてきたんだ!なんて息巻いてました。けれど、確かにその通りだとも思います。これまでの人生、自己分析をサボった日はありません。ところごどっこい、答えが出ないのでした。真剣に取り組んでいるつもりなので、そろそろ心が折れそうですが、他にやることもないので、人生を棒に振って自己を分析します。

 


そうすると、あまりに浮き彫りになる情緒不安定。いくら分析を進めて、これ!もう私の性格はこれで決定!となっても、明日になれば、全く違うことを言いだす。統一性のないデータばかり集まって、研究サンプルが毎日変わってるようじゃ、なんの統計も取れやしない。誰だってサジを投げるでしょう。昨夜だってサジをできるだけ遠くに投げたつもりが、今夜拾いに行っておりました。今夜は、海に捨てようかな。誰かが間違って拾ったようじゃ、きっとその人はとんでもなく衰弱してしまうだろうから、いっそ海の底へ。いいや、それもいけない。魚やクジラが誤って口にしてしまったら、泳ぎ方さえ忘れてしまうかもしれない。たまに耳にする、浜辺にクジラが打ち上がる原因は、情緒不安定者が海に投げたものを誤飲したからじゃないでしょうか。やはりいけない。今夜は枕元くらいに置いておこう。自分の情緒不安定性は、自分でも扱いきれないのだから、誰かに移ってしまったときには、そいつと共に自害するほかない。

 

パート1おわり

 

タバコについて(黄色のピースとラッキーストライク)

 

 

 

 

もう4年くらい黄色のピースを吸ってます。

たまに、他のを買ったりするけど、結局物足りなくなって、黄色のピースを買います。

 

でも同居人は、よく銘柄を変えます。

おかげでいろんなタバコを吸うことができるのですが、やっぱり黄色のピースが好きです。

 

しかしですよ、彼が適当に買った、フィリップモリスの14ミリを吸ってみると、結構気に入りました。

 

そして今、風呂を済ませて、ピースを吸うか、フィリップモリスを吸うか、ぼんやり悩んでフィリップモリスに火をつけました。

 

ぼーっと吸ってると、ああうまいなあ、こっちに変えようかなあ。

タールも下げた方がいいだろうしなあ。

でも今までずっとピース吸ってきたしなあ。

しかし美味いなあ。と感動していました。

 

ふと手元に目をやると、僕は黄色のピースを吸っていました。

頭の、どの部分がダメになったのでしょうか。

最初からピースを吸って、これ美味いなあ、こっちにしようかなあと思っていたのです。

怖くなりましたが、変なやり方で、愛情を深める結果になり、またひとつ黄色のピースが好きになりました。

だるい時に吸うと、1日何もできなくなるくらいキツいけど。

 

 

 

初めてハマったタバコはラッキーストライクでした。でも正直味の良さとか違いもわかりませんでした。

ただ、大好きだった友人と同じタバコを吸いたくてラッキーストライクにしてました。

 

けれど、その友人と少し疎遠になりました。

なんとなく好奇心で、コンビニで1番タール数が多いタバコを買ってみたら、黄色のピースでした。

初めて吸ったのは、バイトの帰り道で、ふらふらになってしまいました。

もうタバコはやめようと思いましたが、そこそこニコチンに脳をやられているし、貧乏性もあり20本すべて、やっと思いで吸い終わりました。

 

「銘柄はコロコロ変えるもんじゃない」と言っていたラッキーストライクの友人に、すこし申し訳ない気持ちで、再びラッキーストライクを買いました。

 

買ったローソンの灰皿の前で火をつけました。その時はちょうど夕方で、高校生が自転車を並べて走っていました。

ただ友人のことを思っていました。

 

ラッキーストライクを1本吸い終わると、ただ物足りなくなっていました。なんだか汚れた気分でした。

 

 

いつか、「ラキストは初恋でピースは暴力的な欲情です」と酔って言ったことがあります。思い出しても恥ずかしい。ダサい。

でもまあ、そんな感じなのは否めません。

ただ何かに憧れて、純粋に思いを送っていたのに、ふと足を踏み外すと、もう戻れない感覚。なにより、すでに初恋の純情を、過去のものとむしろポジティブに受け入れ、多少の汚れを良しとして欲情のまま身を委ねる。

そういう感覚。

大人になったと言ってしまえば、済む話で、そういう言葉で済ましている人も多いんだろうなと偏見混じりの予測をしています。

けれど、この感覚を、大人になったとかで済ましてしまうと、僕の人生が否定されるもの同然なので、まだ不意に思い出しています。

あの友人のことも。

去年話した時には、もうアイコス吸ってたけど。

 

 

もう夏ですね。どうにか生き延びましょう。

ダメそうならやめましょう。

いつも読んでくれている人ありがとう。

「自己診断テスト」に対する見解

 

 

 

 この生活になって、2ヶ月ほど経つ。

 

 暮らしは穏やかで、心情も一定水準を保っている。

けれども、一端の孤独感は、かわらずあって、悶える夜が続いている。「僕を知ってくれ!ここに今なんとか生きている僕を認めてくれ!」と叫びたがる感情を寝返りで誤魔化す。寂しさを埋めるための、健全な努力さえ、冷めた目で見る自意識がある。実は未だ、泣きじゃくって駄々をこねたい。でも、そんなことをしている成人を見たことがないので、今夜も、同居人の仕事服を干している。見たことがないと言ったけれど、所々見ているかもしれない。その度、大人の敗北をみたような気になって、嫌になっている。結局、ほんとうに泣きじゃくって駄々をこねても、まわりはついに狂ったとしか思わないだろうし、僕もそのまま狂ったフリをするしかない。

 

つい弱ると、診断テストみたいなものをしてしまう。自分の未だ信じている可能性を肯定してくれて、アイデンティティとさえ感じている欠点を言語化してくれる。回答するときも、もはや自分の本心よりも、「なんかわからんけどすごい奴」という人間の答えに寄り添って、タッチしている。答えが気に入らなかったら、やり直したりする。本心で挑んでみても、今夜はYESだが、昨夜ならNOみたいな質問が多すぎる。・決断は「頭脳で決める」or「感情で決める」まず頭脳と感情の定義付けからしないと、安易に選べない。こんなわけのわからない診断で、自己をふわふわさせたくないのだ、本当は。といいつつ、一昨日やったのだけれど、「あなたは周りを気にせずやりたい事をやるタイプ!」という結果だった。馬鹿にされている。これほど周り、世間を気にしている人間がいるか。怯えて暮らしている。

 ゴミの日の話がある。捨て場にゴミを出しに行くと近所の奥様方がいて、それらに顔を合わせるのが恐ろしくて堪らず、自室がゴミ袋で埋まりかけた過去を持つ男なのだ。3時間に1度くらい、ふと、自分のことを誰も知らない土地に行きたくなる。けれど、どこの地域もゴミの日はある。行き詰った。日本を出て、発展途上国にでも行こうか。無理だ。トイレや風呂が不衛生だと住めない。行き詰った。もう諦めて山奥とかで暮らすしかない。無理だ。虫が怖い。

 

 話が逸れた。やはり僕は、周りを気にせず、なんて出来たことがない。世間。たまに、「気にしすぎだ」「被害妄想だ」と心配してくれるが、僕にはその言葉を信じることができない。なにも病的に被害妄想をしているわけではない。それなりにこの社会で生きてきて、それなりの経験から生まれた予測なのだ。だいたい「こう思われているだろうな」は的中するのだ。それでもなお、「気にしすぎだ」とか言う奴は、単に話が噛み合わない。その対人における感受性の低さを羨ましくも思う。

 

 この生活は、あまりに物語がないので、登場人物が自分の、ただの感情の言語化の羅列みたいな文しか書けないでいる。でもずっと書いている。まるで世間から求められているように書いている。そんなわけがないことは、しっかり理解している。けれど仲間を探すように書いている。つまるところ、「周りを気にせずやりたい事をやるタイプ!」なのかもしれない。少し悔しくなったので今夜は寝る。